函館山 標高334メートル 新三世紀中新世から鮮新世にかけて、海中に噴出した火山。
離れ小島だった函館山は、亀田川などの土砂の堆積により、離れていた亀田半島とつながり
陸繋島(リクケイトウ)を形成したため、天然の良港が生まれ 現在の函館市街地がそこに広がった。
世界三大夜景に数えられるこの山への登山者は年々増える一方の様に思えるが、
一番最古に登った人は、永仁四年(1296年)日蓮宗の坊主 日持上人だそうである。
学者では測量の大家 伊能忠敬が寛政十二年(1800年)山頂で北海道測量の第一歩を
始めた。これは彼の日本全土の測量の第一歩でもあったのである。
政治家では寛政十二年に松平信濃守忠明が蝦夷地警備の総取り締まりとして、
来道した際に登り。また、蝦夷地探検の第一人者 間宮林蔵が登ったのは享和元年(1801年)
だと言われている。そして、あの豪商 高田屋 嘉兵衛が郷里 兵庫県から杉や松の苗木を
函館山に植林したのもこの頃である。
大々的な植林は七飯村の百姓 倉山卯之助が文化五年(1808年)杉苗2万本、松苗2千本を
植えたのが最初と言われている。
外国人では、1854年ペリー艦隊が来た時に軍医モローと通訳のウィリアムスが函館山の
植物を採取したのが初めて。
また、ブラキストン・ラインの発見者イギリスのブラキストンも函館山の鳥類を研究した。
小学生でも容易に登山できるこの山の自然は大変豊で、植物などは実に数多く市街地に接した
狭い山でありながら、現存する植物は600種以上と言われています。この山は温帯北部に属し東北
北部と共通点の多い、北海道でも本州的要素の最も濃い地域でもあります。
種の数にして約70パーセントが本州北部のものと同じと言われています。(案内板より)
しかし、その昔函館山の森は、松前藩の重要な財源の一つとしてほとんど伐採されハゲ山状態に
なってしまったようです。1799年蝦夷地が幕府の直轄地になった後、ここを視察した役人が
木を伐採したものは植林を義務ずける法を制定した。江戸後期 倉山卯之助などがスギなどを植林。
その後1899年函館山は軍の要塞としての工事が始められ、まわりは要塞地帯と化し入山はおろか
絵のスケッチなども禁じられたのである。
函館山が開放されて町単位での登山が許可されたのが昭和21年5月21日、長い間一般の立ち入りが
禁止されていた為、自然が比較的良好に保持されていた。
植物の宝庫である函館山は野鳥についても 紛れも無く宝庫であると言える。函館山は津軽海峡に
突き出ています。その反対側のみ函館市街地に接している為、海峡を通る渡り鳥たちの休息地にもなり、
野鳥にとっての安住の楽園になっている。
アオジ、アカゲラ、アカハラ、アトリ、イソヒヨドリ、イワツバメ、ウグイス、ウソ、ウミウ、オオルリ
カワラヒワ、キクイタダキ、キジバト、キビタキ、コガラ、ゴジュウカラ、コゲラ、コムクドリ、シジュウカラ
その他〜