体育館にパコーンという綺麗な音が響いた
「痛ぇーな。何するんだよ?」
そう言って振り返った杉浦竜也は、鬼のような表情を浮かべて目の前に立っている進藤祐里を見て思わず苦笑する
どこから取り出したのか、祐里の右手にはスリッパが握られていてどうやらそれで竜也の頭を殴りつけたらしい
「あんたが悪いんでしょ。ちゃんと真面目に歌いなさいよ」
”「昨日まで、好きだった祐里が急に嫌いになった ワガママかな?」と僕は言った
「ううん、それはきっとよくあるコトさ」
裏づけさえないまま光は言った”
せっかくの名曲の出足をぶち壊すそれをいきなり竜也がやらかしたことに対して祐里は大層ご立腹な様子
「竜ちゃん、確かによくあることだけどさすがにそれを今歌うのはダメだと思うよ」
いつものように小さく口元に笑みをたたえて微笑んでいるのは水木光で、そのやりとりを静かに見つめつつ笑みを隠し切れないのが春川美緒
”LOS INGOBERNABLES de 西陵”
Vo&Guの竜也、Baが祐里、Gu光、Key美緒の4人組
文化祭だけ活動する一応バンドの体をなす『ユニット』
今日はその文化祭前日の最終リハーサルなのだが、いつも通りと言うとアレだがまともに練習にならない有様
竜也と祐里は家が近所で、幼稚園からの付き合いという筋金入りの幼馴染な関係
どちらかといえば陰キャな竜也と、見た目派手な祐里が同じ”バンド”にいるのはそういう為。まあ2人は野球部の選手とマネージャーという関係でもあるが
祐里と光は高校に入ってからの付き合いなのだが、異常なまでに波長があって親友の関係
学力では天と地の差があると言っても過言でもない(うるせーよ、おい(08年東京優駿四位洋文インタビューism))のに、初対面から意気投合。祐里と仲良くなるにつれ、竜也とも仲良くなるのはあくまで自然の流れだった。そう、まさにこれはDestino.
去年は3人で演奏した”LOS INGOBERNABLES de 西陵”
盛況のうちに演奏を終え、3人がそれぞれステージ裏に下がろうとした時に『事件』が起こった
「フィルマ! フィルマ!」
謎の単語を叫びながら一人の女生徒がステージ前最前列まで近寄って来る
文化祭のパンフレットを片手に、もう片手にはサインペンを持ち満面の笑みを浮かべているショートカットのその少女に竜也と祐里は見覚えがあった
竜也と祐里が思わず顔を見合わせていると、その女生徒・春川美緒は改めて頭を下げていた
「firmar por favor(スペイン語でサインください)」
閑話休題
相変わらずお怒りモードの祐里はともかくとして、竜也と光、そして美緒の3人はそれぞれ明らかにリハに気が入ってない様子
光はやたら時計を気にしていて、竜也はグラウンドのほうに視線を向けている。美緒はその2人に気づいて一人思案顔
それに気づいたのか、祐里はさらに不満そうな様子を隠そうとしない
「竜も光もやる気ないなら帰っていいよ。時間勿体ないしさ」
祐里がちょっと寂しそうに告げると、光は申し訳なさそうに頭を下げる
「ごめん。もうすぐ親が迎えに来るんだよね。塾の試験に間に合わなくなりそうで」
光がそう返すと竜也はマジかよという表情を浮かべたが、すぐにやれやれという感じで首を振った。何で早く言わないんだよと言いかけたが、それを言い出せないのが光だとわかっているので敢えて言わない
それに気づいた美緒は急かすように、「ほら、じゃあ片付けようか。私たちは練習しなくても大丈夫。竜也、そうでしょ?」と意味あり気に視線を送る
竜也はその視線に無言のままサムズアップポーズで返したが、やがて「いやな、ぶっちゃけ嫌な天気だなーって思っただけ。やる気ないわけじゃないんだ」と申し訳なさそうに言う
「確かに。降ったり止んだりでいい気分はしないよね」
美緒がすぐに続けたが、祐里はあぁ、そういうことかと違うことを考えていた
“確かに、あの日のことを思い出すよねこの天気は”
結局、練習らしい練習はせずに光は申し訳なさそうに帰って行った
ごめんね、明日はちゃんとやるからと何度も頭を下げていたが、そもそも光が謝る必要は何もないわけで
「つか竜、明日失敗したら許さないからね」
帰り道。祐里が強めの口調でそう言ったが、竜也はイヤホンで曲でも聴いているのか素知らぬ顔をしている。それで美緒が「大丈夫だよね?」と竜也の左肩をぽんと叩く
ん?という感じで竜也がイヤホンを外したので、祐里は同じセリフを繰り返す羽目に
「私、失敗しないので」
どっかのドクターのようなセリフを吐くと同時、竜也はいつもの見開きポーズで祐里、そして美緒を見るとニヤリと笑った
よく言うよと祐里は内心思ったが、実際こいつは何だかんだソツなくやっちゃうからなーとも思っていた
「そいえばさ、あのスリッパで叩いたのって2年連続だよね?」
美緒が思い出したようにふふと笑いながらそう言うと、竜也は苦笑して頷いたが祐里はえ?というちょっと驚いた表情
あれ、去年は美緒はまだ”メンバー”にいなかったよね...?
その思いが祐里の顔にはっきり出ていたのだろう、美緒はまたふふといつもの笑み
「実はさ、去年偶然リハーサルしてるとこ見ちゃってたんだよね」
美緒が言うにはこうだった
文化祭準備で盛り上がる最中、転校で西陵に来たばかりの美緒は暇を持て余していた
トイレの後、教室へ戻ろうとしていると体育館から楽しそうな声が届いていた
勝手に足がそちらへ向かい、美緒が体育館に入るとそこには....
"すぐにわかったよ。あ、祐里と竜也だって。びっくりしたけどホントに嬉しかった”
ホントはそのまま壇上まで行きたい気持ちだったが、それじゃ面白くない
何かサプライズをしたいなと思った美緒は、文化祭当日に“アレ”を決行した
「昔よくやったよね。サインくださいって。アレやれば思い出してくれるかなってね」
美緒がいたずらっぽく笑ったが、祐里はすぐに首を振った。とはいえ顔には笑みを浮かべていたが
「それはいいんだけどさ、何でスペイン語よ。全然意味わからなかったし」
祐里がそう言うと、今度は美緒が不満そうに首を振る。それはないでしょという感じで「バンド名スペイン語じゃん? 何でそれでスペイン語がわからないの?」と続ける
それで竜也は思わず噎せていると、祐里がジト目でそれを見つめている
「こいつだよ、あんな名前つけたの。スペイン語で“制御不能”だっけね。これがいい。カッコいいじゃんって。その名前じゃないと俺参加しないからとまで言い放ちやがってさ」
祐里の口調こそ呆れているが目は笑っている。まあ私はバンド名とかはどうでもよかったからねと続けて
「そいえば光ちゃんは反対とかしなかったの?」
美緒が今更ながらにして訊くと、祐里は小さく首を振った
「竜ね、そういうとこはしっかりしてるんだよ。きっちり根回し済みなんだからさ。光も同じこと言ってたからね。カッコいいじゃないって。“竜ちゃんが決めたなら私は反対しないよ”って感じ」
祐里と美緒のやり取りをさも他人事のように聞き流していた竜也だったが、不意にスマホを取り出すと画面を見て一人頷いている
「どしたのさ。なんか面白いネタでもあったの?」
祐里が聞くと、竜也は美緒も手招いて自分のスマホの画面を見せる
「光から。今日ごめんねってわざわざ送って来てるから。あいつらしいなって思ってな」
その画面には短い文ながらわざわざ謝罪して来ている光からのLine。その文章からは人柄を感じ取れて、ホント育ちがいいんだなと竜也は一人勝手に感心している
「そいや今日は練習中止になったみたいだね。さっき仲村から連絡来てたさ」
祐里が不意にそう言った。竜也と祐里はだいぶ前から文化祭前日は“リハーサル”のため休むとは伝えてあったものの、それでもあまりいい気はしていなかったのでまあよかったというところ
「まあこの天気じゃね。グラウンド状態やばいよね」
美緒が何気なく言ったので祐里はそれを慌てて遮ろうとするが、もう時すでに遅しだった
竜也の表情はさっきまでと打って変わり沈み切ったそれになろうとしていたので、祐里は静かに首を振った
しかし竜也はすぐにイヤホンを耳にして何事もなかったようにしているのを見て、祐里は内心感心している。こいつ、こういうとこあるんだよね。絶対人に気を遣わせないタイプ
美緒は幸い“異変”には気づかなかったようで、竜也が2人と一緒にいるのに曲を聴いているのを見て小さく微笑んでいる
「何だい。竜也はもう明日のイメトレでもしてるのかな」
美緒がそう呟くが竜也にはそれは届いておらず、ん?という感じで首を傾げている
普段の祐里なら一緒に帰る時にイヤホンをつけていることを咎めるのだが、今に限っては仕方ないかーという感じで傍観している
高校から美緒の住むマンションはほど近いので、すぐに到着する
「じゃあまた明日ね。もしかしたら夜連絡するかも」
美緒はそう笑いかけると、祐里も同じように笑みを浮かべて頷いている
竜也はそのやり取りは聞こえていないようだったが、いつものようにわざとらしく目を見開くポーズ
さすがに右拳を掲げるアレはやらず、さっという感じで右手を上げて立ち去っていく竜也を祐里は慌てて追いかける感じで続いていく
それを美緒は目を細めつつ見送ると、マンションへ入って行った