別に雨の日が嫌いなわけじゃない
ただ....あの記憶が蘇るだけ。ただそれだけのこと
去年の道予選準決勝
雨が降ったり止んだりの悪天候により、グラウンド状況は最悪
試合は7-1と西陵が大量リードで迎えた最終回2アウトランナーなし
1年ながら市予選からずっとスタメンショートの竜也は、もう明日のことしか考えていない
道予選怒涛の大本命が開いてになる決勝戦。市予選からずっとコールド勝ちをしてるそれに対し、今のうちの流れならきっと行ける。俺たちなら勝てるとそう実感していた
そんな時、相手右打者の放った打球は力ないショートゴロ
難なく捌いてはいおしまいといったところのはずだった。いつもなら前に出て捌くそれを、大事に行ったのか違うことを考えていたせいなのか、竜也はその時ばかりは待って取りに行ってしまった
ぬかるんだグラウンドに嵌って打球は止まってしまい、竜也が慌てて捌くも結果は内野安打
その後3連打を喰らったものの試合は勝利したが、竜也の表情は晴れなかった
「気にするな。お前のせいじゃないから」
3年エースの加藤は試合後に何度も頭を下げる竜也をそう諭し、他のメンバーも一様に責めることはなかったのだが竜也の心の中の霧は晴れないまま
宿舎に戻り風呂上がり、竜也は一人広間から離れて受付のある場所で黄昏ているとその横に人影があった
いつの間にかすぐ横に座ったその少女は、「どうした。明日に向けて緊張でもしてるの?」と竜也が聞き慣れた声をかける
それで竜也が振り向くと、そこにはよっという感じで右手を上げる同じく風呂上がりな感じの祐里の姿
「にゃ緊張なんてしてねえよ。ただやっちまったなーって」
竜也が首を振っていると、祐里は一瞬ぽかんとした様子を浮かべるがすぐに右肩をポンと叩いた
「あの場面かぁ。チャンスで打てなかったもんね。けど4打数3安打だよ? 十分じゃない」
てっきり先制のチャンスで凡退したことを悔やんでいるのだと思い祐里が励ましたが、竜也はすぐに苦笑して再び首を振った
「あの時は打てるボールなかったからな。それでも最低限進塁打打てたから悔しくはないよ。ただな...」
竜也は相変わらず沈んでいる様子なのだが、祐里にはそれ以外で今日の試合で竜也がミスをしたイメージがないだけに内心首を傾げている
その後しばらく二人は無言でその場に佇んでいたが、やがて3年のマネージャーがたまたま現れて「ダメだとは言わないけれど、あまり二人で一緒にいないほうがいいと思うよ。面倒になるからね」と小声で竜也と祐里に声をかけたのでそれぞれ部屋に戻ることに
“何だかわからないけどさ、あんま落ち込むなよ。明日勝てば甲子園だよ!”
部屋に戻ると祐里からLineが届いていた。光からも“あと1勝だね。祐里を甲子園に連れてってあげなさいよ”と同様にLineが届いていたが、竜也は既読にするだけで返信はしなかった。いや、出来なかった
心の靄は晴れるどころか悪化していく一方だったので
そして決勝戦当日
現実は辛いもので、力の差は歴然だった
3回表を終わって0−3のビハインドでの裏の攻撃。2死2塁で竜也に打順が回り、左打席から放った会心の打球は弾丸ライナーでのライト前ヒットだったが当たりがよすぎて2塁ランナーはホームで憤死
それ以降西陵はチャンスらしいチャンスはなく、一方的な展開になり0−9での敗戦
竜也は孤軍奮闘した感じになった3打数2安打1四球という成績
チームメイトは泣きじゃくる中、竜也は一人冷めた表情を浮かべて一人何度も首を振るだけだった
祐里もスタンド応援で泣いていたのだが、竜也のその様子を見てあいつ強いなーと感心していたのだが
時は経ち夏休み初日
早くも新チームとして始動するその日の出来事だった
3年生が部を卒業したのでメンバーは大幅に入れ替わる
2年の部員が少ないこともあり、1年がレギュラー候補に抜擢されているポジションが多数ある
唯一道予選での1年レギュラーだった竜也のショートは安泰といったところだったのだが、練習初日に事件が起きる
最初の軽いノック。ファースト、セカンドと緩いゴロをそれぞれ守備位置についていた樋口智宏、千葉安理が何事もなく処理して次はショートの番
同じように緩い打球を竜也は難なく捌き、1塁の樋口へ送球をしようとしたのだが...
裸眼で視力1.2を誇る竜也の視界がなぜかぼやけて見える。一瞬目を疑ったが、それでも投げないわけに行かないと思い再び視線を一塁に向けるがより一層ぼやけるだけ
竜也はごめんという感じで右手を顔の前に上げると、ボールをセカンドの安理にトスしてノックを打っている仲村監督の元へ駆け寄って行った
「すいません。何か目の調子悪いみたいなんで早退します」
神妙な口調でそう言うとと、仲村はいつも通りクールな視線のままわかった。ちゃんと病院行って来いと告げて早退を許した
しかし竜也は病院に行かずに真っすぐ帰宅していた
病気じゃないのは自分で気づいていたので。何となく知識はあったが、まさか自分がなるとは思わなかったそれ
“イップス”
きっとこれなんだろう
決勝戦の日はライナーを2つ捌いただけなので気づかなかったのだが、それに罹患してしまったと思った竜也は内心絶望していた
あの準決勝のあれ。あと1歩を踏み出す勇気がなかっただけで、チームの流れを悪くしてしまったという思いをこじらせすぎたのが原因なのだろうか
“野球は流れのスポーツだからな”
竜也が常々口にしていた言葉。竜也の中ではあの打球を捌けなかったことで西陵の流れが悪くなった。持っちいいえば勢いが殺がれてしまったと思っている
何もないただのワンプレイ、それが運命の分かれ道だった
何度もその日祐里からLineや着信があったが竜也は出なかった。いや、出れなかった
心の整理が追い付かず、これからどうしようという思いしかなかったので
眠れない夜を過ごした翌日、部活は休みなのだが仲村が学校にいるというのは祐里のLineで知っていた
“仲村も心配してたよ。明日も学校いるみたいだしちゃんと連絡しなさいね”
竜也は翌朝ようやく既読にしてそれを見ると、1枚の紙を持って学校へ向かった
夏休みの校内。9時半過ぎということもありまだ生徒はほぼ見えない中、竜也は一人部室へ向かう
直接職員室へ向かうのではなく、あえて部室へ向かったのは心の整理をしたいという思い。そして...
別れを告げたいという思いの2つ
竜也が持っていたのは“退部届”だったのだから
イップスになってしまったのだから、もうこのまま続けるのは無理というのが竜也の結論だった
何度頭で考えるだけども、ファーストへ投げれるイメージが湧いてこない重症さに内心笑ってしまう自分がいた
グラウンドに向かって軽く一礼をした後、竜也が部室に向かうとそこには仲村と祐里の姿があったので竜也は驚きを隠せない
祐里も竜也の登場に驚いた様子だったが、仲村は昨日と同じようにクールな視線のまま竜也を見据えている
「竜...元気そうだね。安心したよ」
祐里は笑顔を見せ、持っていたボールを軽く投げ渡す
どうやら2人でボール磨きをしていたようで、仲村も同じようにボールを持っている
「どうした。病院は行ったのか?」
仲村が声をかけると、無言のままだった竜也はカバンから“退部届”を取り出すとそれを仲村に手渡した
祐里はその紙を見て驚き目を丸くして声を出せないでいたが、竜也はそのまま頭を下げて帰ろうとしている
「...杉浦。ちょっと待て」
仲村が呼び止めたので竜也は歩を止めると、ようやく我に返った祐里は「どういうことさ。何であんたが辞めなきゃダメなの?!」といつも以上に強い口調で問いただすが竜也はそれに答えようとしない
「もう決めたことだから」
竜也は聞こえないよう小さく呟いた。祐里には後から連絡しようと思っていたわけでかえって好都合かなと思う反面、悪いことをしているなという思いもあったが決意は変わらなかった
「なあ杉浦、お前これから時間あるか?」
仲村がいつも以上に優しい口調でそう言ったので、竜也は思わず頷いていた。うん、確かにやることはないし時間は余っているけれども...
「進藤、お前も付き合え。ちょっと話をしようじゃないか」
仲村はそう言うと静かに笑った。場所変えたほうがいいな、誰来るかわからないしなと続け、仲村は竜也と祐里を駐車場の前で待っていてくれと言うと慌ただしく校舎へ向かっていった