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3回裏に1点先制を許し、迎えた4回表
1死から京介がヒットで出塁し、岡田がまさかのセーフティバントをするも1塁はアウトで結果的にランナーを送った形に
2死2塁と同点のチャンスが出来上がった

いつも以上に静かに打席に向かう竜也に対し、ベンチの祐里からいい加減打てよ。西陵の倉本!と応援なのか野次なのかわからない声援が飛ぶ

「変化球切れてきてますよ」
すれ違いざま岡田がそう声をかけてきたので竜也は小さく頷いて左打席へ

相変わらずメガネの捕手は何やら囁いているが、竜也は気にもせず打席に専念している
それをベンチで見ている祐里、そしてスタンドで観戦している光や美緒は何やら怖さを感じていた
研ぎ澄まされすぎている集中力というか、もう声すらかけられないそれ

勝負は呆気なかった
初球の外角真っすぐを見送った後、2球目の内角に切れ込むスライダーを無理やり打った感じのショートへのポップフライ
またも凡退で10打数0安打、チャンスも逸した形でベンチ、そしてスタンドからは落胆の声が上がったわけだが

竜也は一人何度も頷いていた。そう気味が悪いほどに何度も何度も

ベンチに戻ってすぐ仲村が思わず、「次あんな打ち方したら交代だぞ」と声をかけたが竜也はただ頷くだけ
タオルで汗を拭っている竜也に、“はい、グローブ”と祐里が手渡すと竜也は祐里の目をまじまじと見た

「ようやく思い出した。掴んだぞ...!」
今まで見せたことのない怖さすら感じさせる竜也の視線に祐里は内心恐怖を覚えた一方、どことなく危うい雰囲気も感じ取れた


「祐里の見たいものと俺が見せたいものは一緒だから」
そう言って竜也はグラウンドへ走って行く。その姿はいつもの竜也なのだが、何か、どこか違う世界へでも行ってしまいそうなそれ

ねえ、掴んだ人はその後どこかに行っちゃうの...?

試合はその後も相手ペース
4回裏、5回裏と2点ずつ追加され0−5と西陵は苦しい状況

6回表
空からは雨が落ち始め、波乱の予感が漂い始める空気の中、ついに西陵が反撃を開始する
9番の和屋が止めたバットのグリップエンドに当たる奇跡の捕手前内野安打で出塁すると、京介が「勝つのは僕たち西陵だよ」と相変わらずクールな口調ながらも当たり自体は渋すぎるライトへのポテンヒット
和屋が判断よく走り1、3塁となって打順は2番の岡田

「先輩...おいしいとこは譲りますからね、頼みますよ」
岡田はそう言って不敵に笑って打席に向かうと、だいぶ制球が荒れて来た投手からきっちり四球を選びノーアウト満塁のビッグチャンス

ネクストで竜也はその様子を黙って見届けていたが、いざ打席へ向かう前に祐里のほうを見て小さく笑った

俺が今まで野球やってこれたのは祐里のお陰。祐里に笑ってほしい、喜んでほしい..ただそれだけでやって来た
なぁ、今の俺はそれを出来ているのか...

ベンチ、そしてスタンドから湧き上がる大歓声。そして相手スタンドから湧き上がる悲鳴のような声
あぁ、重いなーと竜也は打席に入る前にヘルメットを外して一回大きく天を見上げた

「竜...打ってよ! そして無事に還って来て!!」
祐里は無意識にそう叫んでいた
ベンチにいるそれぞれはみんな驚いたように祐里のほうを振り返る
祐里自身もなぜそんなことを口走ったかはわからない。ただ打席に向かう竜也を見て、咄嗟にその言葉が出てしまっただけ

打席に入ると、竜也は再びふぅと大きく息を吐く
その様子を見てメガネの捕手は「星屑の天才さん、もう試合はウチが貰ったんだからさっさと凡退して帰りな」と囁いているが、それはもう竜也の耳には届いていない

初球はアウトコースに抜けたスライダーでボール
次は内角に起こしに来るんだろうなと竜也は内心頷いて、それに狙いを定める
メガネの捕手はその予想通り内角高め、インハイに構える
“ブラッシュボールでもいい。何かこの打席のこいつはやばい”
妙な圧力を感じてのサインだったが、雨により投手の手元が滑ってしまう

意図せず直球が竜也の顔面へ向けて迫って来る

「嫌ぁ....!?」
祐里は悲鳴を上げ思わず目を背けたのだが


カキーンという音が響く

それで祐里は恐る恐るグラウンドに視界を戻すと、白球はライトスタンドへ消えて行っていた
一瞬静まり返ってからの大歓声が沸き上がる球場

顔面寸前に迫ったボールを、無理やり首を捻って顔を避けながらの大根斬りに近いとんでもないスイングから放たれた打球は一直線でイッツゴーンヌ
相手監督が思わず「ホームランはないやろぉ...」と項垂れてしまうそれ

打った本人もびっくりしているのかなかなか走り出さずにいたが、やがてベンチ...祐里のほうを見ると小さく右手を上げた
歓声の中、竜也は静かにダイヤモンドを一周している。まるで世界に一人だけ残されたかのようにただただ静かに歩を進めている竜也を見て、祐里はもう言葉も出ずただ眼に涙を浮かべるだけ

たった数十秒のはずが、とてもとても長い時間に思えた
早くベンチに戻って来て...祐里はただそう思えてならなかった
ホームインをして竜也は天をまた見上げた。そして、次の打者4番の中岸とハイタッチをしようとしたその瞬間....

竜也はそのままその場に崩れ落ちた





「目が覚めたかい?」
どれくらいの時間が経過したのだろう、竜也は気づいたらベッドの上にいた。目の前には静かに笑みを浮かべる美緒の姿
ここは....?竜也が訊くと、美緒は医務室だよと答えた

「1時間も経ってないよ。今は8回裏ってとこかな。さっき光ちゃんが経過を教えに来てくれてね」
竜也が慌てて起き上がろうとすると美緒はすぐにそれを止めた。無理しちゃダメだよ、酷い寝違えのようなもので今キミは首が回らないはずだと言って小さく首を振った

竜也がそれで何気なく首に手を触れると固定するためのコルセットが巻かれている

「あんな無理な打ち方したんだから当然だよね」
美緒がそう言って微笑んで、あぁそういうことかとようやく竜也は状況を把握した
ちょっと待ってて。祐里を呼んでくるよと言って美緒はその場を後にする

あの場面
もう逃げても間に合わないと思い、咄嗟に“棒”で身を守ろうとしただけのそれ
あれが練習試合、公式戦通じて初ホームランかと思うと竜也は思わず苦笑してしまっている
無理やり首を捻った際にやらかしたみたいだが、元々首が長いので寝違えをすることが多かっただけにそれが原因なのかなといろいろ考えている

「まあ2、3日安静にしてなさい。すぐに治るよ」
いつの間にか現れた医者がそう告げ、やがて美緒が去って行った戸のほうを見て小さく笑みを浮かべている
「さっきの子じゃないな。君を運んできた時にいた女の子、ずっと泣いてたぞ。女子を泣かせるのはダメなんだぞ」

言って医者はニヤリと笑うと、人の気配を察したのかすぐにまたその場を去る
そしてすぐ戸がカチャリと開いた

「よっ」
祐里の姿が見えた瞬間に竜也がおどけたように声をかけると、祐里は驚いた表情のまま目に涙を浮かべてバーカと声をかけると、「ごめん、まだ試合中だからさ。戻らなきゃ」と言ってすぐに戻って行った

「祐里、強いね」
戻って行く祐里を見て美緒は目を細めている
祐里はずっと泣いてたけど、すぐにマネージャー業務あるから。あとお願いねと見舞いに来た私と光に託してベンチに戻って行ったんだよと美緒が言うと、竜也は頷こうとしたが首が思うように動かないので小さく笑みを浮かべるだけにした

竜也は美緒を手招きで呼ぶと、「ベンチまで連れてってくれ」と頼んだ
美緒は一瞬驚いた表情を見せるが、医者は「大丈夫だ、連れてってあげなさい」と頷いて了承している
とはいえ美緒一人では無理なわけで、ちょっと待ってと言って光を呼んだ

光はすぐにやって来て、「竜ちゃん、貴方色々無茶しすぎだよ」と小さく笑みを浮かべている

二人に支えられて竜也はベンチに戻ると、すぐに樋口が寄って来て「アホか。ゆっくり休んでろよ」と言葉はきついながら、目だけで笑みを浮かべて何度も頷いている
“部外者”は入れないので「じゃあ後でね」と美緒と光は去って行き、竜也は樋口と和屋に支えられながらベンチに着席

「試合はどうなってる?」
竜也が訊きつつグラウンドを見ると、そこには必死の形相で投球に食らいつく御部の姿があった

「4−5のままだ。お前の代わりに御部が入ってセンター、千葉がセカンドに回った」
仲村が竜也の横に立ちそう言うと同時、惜しくも御部は見逃し三振に倒れていた

「諦めるなよ! まだ試合は終わってないぞ!」
竜也がそう叫ぶと、打席に向かう中岸とネクストに向かう千原はそれぞれ親指を立ててニヤリと笑った



「また甲子園無理だったわ。ゴメンな」

試合終了後バスで帰校になるのだが、家が球場から近所。状況が状況なので別行動の許可が出て竜也と祐里は二人で歩いて帰宅することに
その帰り道、竜也はすぐにそう声をかけると祐里はすぐに笑みを浮かべながら首を振った
竜也も祐里も試合に負けたあとは涙を見せていなかった
悔しくないわけがないが、精一杯やったこともあるしそれ以上に別の何かを見つけた気がしたので

「死んだかと思った。ホントあんたってバカだよ」
祐里が竜也を見上げながらしみじみ呟く。心からの本音...
本当にあの打席に入る前に感じた、竜也のどこかへ消えていきそうな違和感を祐里はいまだに忘れられない
当の本人はそれに気づいていないようで、“あー、クビ回らねー”と嘆いておどけているだけだったが

「俺はさ、祐里に笑ってもらいたくて野球やってるってことを思い出したんだよ。“竜ちゃん、野球やってる時はカッコいいよ”って褒めてるんだかけなされてるんだかわからないこと、昔言われたのを今でもはっきり覚えてる」
首を相変わらず動かせない様子で、そう言ってふぅと息をつくだけだったが今日に限ってはやり遂げた感を醸し出している竜也を見て、祐里はふと目を細めた

「秋季大会、そして来年の夏か。そこまでは野球やるよ、俺」
竜也はそう言って祐里のほうを見て笑った。甲子園連れてくからな
選手とマネージャーじゃなく、ただの男子と女子になるかもだけどと言っていつもの見開きポーズをする竜也を見て祐里はちらっと笑ったのだったが....

「33−4」
竜也がぼそっと余計なことを言ったので、祐里の表情がきっと変わった
無表情のまま頭をポカポカ殴りだしたので、竜也は高田延彦ばりの高速タップでそれを止めさせる
ノートンばりにもみもみタップをしようかと考えたが、倫理上そして命の心配があるのでそれはさすがに自重した

「殴ったらアカンすよ」
竜也が苦言を呈すると、祐里は笑顔でこそあるものの目は笑ってない表情のままだった

「竜が悪いんでしょ、ボケ」
それでお互いに顔を見合わせてまた笑った

あぁ、やっぱり雨は嫌いだな...そう思いながら



本編へ続く