『西陵ナイン』は、いつものように練習に精が出ている
“甲子園”は北海道予選よりベンチ入りの枠が広がるということもあり、惜しくもベンチ入りを洩れたメンバーたちはそれぞれ目の色を変えて渡島監督へアピールを行っている
そんな中、『二人の選手』はどこか様子がおかしい感じ
ブルペンで数球投げただけで、伊藤浩臣は「なんか調子出ないんだよな」と言って首を傾げているし、グラウンドのほうでは左右それぞれの打席に入って打撃練習を行っている杉浦竜也は、ヒット性の当たりがまるで出ずにファウルチップやぽpフライを繰り返しているだけ
守備に就いている野手や、ベンチにいる祐里から冷やかしの声が飛んでいるが本人はいたって真顔で浩臣と同じように首を傾げているだけ
渡島から代われと声がかかったので、竜也は打席を外してベンチに戻っている
ほぼ同時にブルペンから浩臣もベンチに戻って来ていて、その2人を渡島は苦笑しながら迎えている
「よし、練習再開」
渡島が声をかけ、打席には控え捕手の近藤が右打席に入って例によってクソボールをひたすら空振りしている
祐里がしっかりしろーと笑いながら声援を送っている横で、竜也と浩臣は並んでベンチに腰かけている
「何だろうな。全然ボールが行かなくてさ」
浩臣はそう呟きつつまた首を傾げているが、竜也も同じように首を傾げているだけ
「せっかく朗報があるというのに、お前たちがその様だと悪い話も3つになるじゃないか」
いつの間にか渡島が目の前に立っていて、そう呆れた感じでぼやいている
「何かあったんすか?」
浩臣が思わずそう返すと、渡島はニヤリと笑ってみせる
「南北海道予選よりベンチ入り枠が増えるのは知ってるだろう?」
竜也と浩臣がほぼ同時に頷くと同時、渡島は後ろを振り返りつつ手招きをしている
そこには真っ黒に焼けた顔が二つ
それぞれ竜也と浩臣の顔を見て、ちらっと笑っている
「須磨と高井じゃん。間に合ったのか」
浩臣がそう呟くと、須磨瀬紘と高井孝之はそれぞれ力強く頷いている
春大会、浩臣は全ての試合登板回避を命じられていたので久友、右内と共に西陵の投手陣を支えたのがこの二人だった
しかし好事魔多しといったところで、夏大会前にそれぞれ高井は左肘、須磨は右ひざを負傷して無念の負傷離脱をしていた
「枠2つ増えた分、須磨と孝之が入ればすんなり決まりです?」
竜也がそう訊くと、渡島は口元に笑みをたたえたまま小さく首を振った
「賢人の検査結果が思ったより悪くてな、守備につけそうもないから外れる形になると思う。これが悪い話その1だ」
言って、渡島は竜也と浩臣をそれぞれ見つめると不敵に笑んだ
「今のままなら、杉浦も伊藤もスタンド観戦だぞ。どうにかしろ」
そう檄を飛ばされる間もなく、浩臣は須磨と高井と目を合わせつつ静かに頷いていた
「燃え尽きた、とか言ってる場合じゃないな。須磨と高井が戻るなら、俺甲子園で投げること出来なくなるかもじゃん」
言うが早いか、浩臣はグローブをベンチに置いたまま「ちょっと走ってきます。その後、もう1回投げ込みますんで」と駆け足でベンチから走り去っていった
「さて、じゃあ俺らもブルペンに行くか」
どちらからともなく、須磨と高井はそう話すと渡島に許可を得てブルペンへ向かって行った
「伊藤は大丈夫そうだな」
渡島はそう呟くと、何事もなかったように練習の視察に戻っている
「あとはあんただけ。どうしちゃったのさ」
いつの間にか竜也の横に立っていた祐里がぼやいているが、それは竜也の耳には届いていない様子
「おい、杉浦。お客さんだぞ」
サードの守備位置についていた京介が声をかけてきたので、ん?という感じで竜也はベンチの外へ
フェンスの外には、見慣れた黒髪の少女の姿。水木光が微笑みながら立っていたので、竜也もよっといつもの右手を上げるやつ
「見てたよ。いい当たり一つもないなんて竜ちゃんらしくないね」
ズバリそう言われるが、実際打ててないのは事実なので竜也は苦笑するしかできない
「今のままじゃ光と一緒にスタンドで観戦する羽目になりそうだわ」
竜也がそう呟いたのを聞くと、光の表情は愁いを帯びたそれに変わる
おっと竜也が思う間もなく、光はどこか寂しそうな表情で小さく首を振ってみせる
「言いたくなかったんだけど、私もうすぐ日本からいなくなるんだよ」
J・O・D・AN J・O・D・ANと思わず竜也が口ずさみかけるが、光の視線はいたって真剣なそれ
何でも語学留学を兼ねて、フランスへホームステイするとかいうとんでもないお話
「もう卒業までの“単位”はあるし、大学へも推薦決まってるから」
さすがの才女ぶりをさらっと言ってのける光だったが、その言葉に嫌味は感じさせないところが人柄と言ったところ
祐里は知ってるん?と竜也が思わず訊くと、光はもちろんと即答した
「西陵が勝ち進んでいる限りは日本にいようと思ってたんだけどね。竜ちゃんがベンチ外なら、すぐ発たないといけないかもね」
ふふと笑みを浮かべている光だったが、その瞳はどこか寂しそう
それを見つめているうち、竜也の頭の中で何かが再び動き出した
モヤモヤモタモタしてる場合じゃねえわ、と。そう、まさに...
Tranquilo.じゃいられない
「明日。紅白戦あるから、それ見に来て。本当の杉浦竜也をお見せしますよ」
竜也はニヤリと不敵な笑みを浮かべると、いつものように右拳を掲げてフェンス際に立っている光に拳を合わせるように要求する
「ズルいぞ。私も混ぜて」
練習を伺いつつ、二人の話もしっかり聞いていた祐里がすぐに拳を重ねている
「ふふ、私は金網越しなのね」
言いつつ、光もしっかりと拳を重ねている
ややあって、じゃあ行くねと言って光は去っていく
それを見送っていた竜也と祐里だったが、すぐに竜也は一人頷いてから祐里に一言告げる
「俺も走って来るわ。うだうだ考えるのはもう終わり」
言うが早いか、竜也は渡島に頭を下げつつ普段見せたことのないスピードで一気に駆けて行った
祐里が呆然とした感じで見送っていると、渡島はいつもの不敵な笑みを浮かべて横に立っている
「やっと目が覚めたみたいだな。水木にお礼を言っといてくれ」
なぜか名前まで覚えている渡島に感心しつつ、祐里はホントに大丈夫なのかなーと内心疑心暗鬼な様子だった