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「杉浦じゃん、ここ空いてるぞ」
下校時の市電の中で、竜也は声をかけられている
おもむろにそちらに視線を向けると、そこには精悍なイケメンの少年が一人座って手招きしている

「松山じゃん。珍しいな」
竜也は小さく笑みをうかべつつ、ゆっくりとそちらに歩を向ける

土曜の昼ということもあり、市電は空いている状態
“座れる”席がたくさんあることは気づいていたが、竜也はあえて立っていただけなので、手招きされたがあえて松山の前に立っているだけ
松山。サッカー部のキャプテンで、実は中学からの知り合い

「なんだ、大会終わったのにまだトレーニングの一環か?」
松山がそう揶揄すると、竜也はすぐに小さく首を振ってそれを否定しつつ、腰を押さえてみせる

「立ってる分には楽なんだけどさ、一回座ると立ち上がるのきついんだわ」


それを受け、松山はしまったという表情を浮かべ、わりぃと小さく声をかける
「そっか。まだ治ってなかったんだな」


§


夏の甲子園
1回戦圧勝、2回戦快勝で迎えた3回戦
その当日の朝に事件は起きた

「...伊藤くん、ごめん。立てねえ」

2回戦の終盤、竜也は途中交代をしていた
併殺を狙った京介のトスが逸れたのを竜也は何事もなく素手で捌き、併殺を成立させたのだったが無理な体勢を強いた際に違和感を感じ、普段なら忌み嫌う途中交代を自ら渡島監督に申し出ていた

その翌日の練習は別メニューにしてもらっていたが、違和感もなくほっと安心をしていたのだったが

試合当日の朝、竜也はベットから起き上がるのもままならない状態
浩臣から渡島に伝わり、渡島の指示で竜也は祐里と病院に向かう

靴下を履くのに20分、靴を履くのも命がけという酷い状況で竜也はただ苦笑しているだけで、同行している祐里もかける言葉が見つからない状態


「って、試合まで間に合わないじゃん、どうすんの」
まるで他人事のように竜也が訊くと、祐里は小さく頷く

「黒澤を代わりにベンチに入れる、って監督が言ってたさ。あんた一人病院に行かせようとしても、絶対行かないで球場に来るだろうから進藤頼むぞって言われたら、私断れないじゃんね」

おみとぉし!(田原成貴ism)だった。違いないと思い竜也は苦笑しながら、下を向いて小さく首を振っている

タクシーで病院へ向かう2人
第2試合なので、治療が終わったとしても試合開始には絶対に間に合わないわけで

「俺に任せておけ。竜が戻るまで絶対に勝ち進んでやるから」
出発前浩臣がそう声をかけている。いつもなら右手を挙げてそれに応じるのが竜也だったが、何せ立っているだけでいっぱいいっぱいの様子。返事すらできずに小さく頷いていただけだったが、祐里が代わりに「みんな、頑張ってね」と返答し、タクシーへ乗り込んでいる


「先輩、相当悪そうですね」
竜路が思わずそう漏らすと、浩臣は苦笑して頷いている

「あの様子ならどう考えてもこの大会はもう無理だろうな。最低2週間はかかるだろ」

大会の日程は明後日が準々決勝で、1日空いて準決勝、決勝と続いていく。全治1週間としても間に合わないそれ
送球が逸れた後すぐに交代しているのは知っているので、責任を感じている京介に対し、渡島は右肩をポンと叩いて激励している

「杉浦が昨日言ってたぞ。“きょぴ”のせいじゃないですからってな。道予選の決勝、9回のダイビング送球した時に強打した張りがずっと消えないって言っていて、病院では異常なしって言われてたんだがな、当人はずっと腰が変なんですよねって言ってたんだ」

渡島がそう話すと、岡田は呆れたような感心したような複雑な表情を受かべている

「ずっと腰に違和感あって、なんで全打席出塁してるんですかあの人」
初戦は4打数4安打1四球、2戦目は2打数2安打2四球。故障を抱えている選手の成績ではないそれ

「それはだな...あいつは、悪魔に魂売り渡してるからや」
千原は真顔でそう言った後、いつもの豪放な笑みを浮かべて続ける

「杉浦のため...、いや進藤もだな。あいつらのためにも絶対に今日は勝つぞ。あと4つ勝ってアレや。深紅の大優勝旗を津軽海峡超えさせるぞ」
千原そう声をかけ、メンバーは盛り上がったのだったが


「勝てるよね。うちならきっと」
祐里は竜也にそう呟きつつ、光や美緒にLINEで連絡をしている
“竜がケガしちゃった。今から病院”

竜也本人はスマホを使うのもだるいと言っているが、観念したのか苦笑いを浮かべているだけ
祐里から光や美緒から送られてきた返信を見て、申し訳なさそうに首を振っている

「ごめんなって返しておいて。とりあえず今日はさすがに無理だ」
竜也がそう話したので、祐里は小さく頷いていた

病院での診断結果は「骨盤の感覚がずれて神経に触っている」とのこと
1週間から10日も安静にしてれば時期に治りますという、ヘルニアなどの重症ではない結果に安堵した2人
痛み止めの注射を打ってから、球場へ向かうことにしたのだったが


§


「って、お前のほうこそ部活出なくていいん? さっき江尻監督がグラウンドに向かっていったの見えたけど」
竜也が不意にそういうと、座ったままの松山は小さく首を振って自分の足首を指さしている

「俺も同じだよ、古傷やっちゃってな。強制送還させられているってやつ」
それで竜也も同じく苦笑して、小さく両手を合わせて謝意を示していた
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