「よくわかんないけど私も着替えてくるさ。竜は先に行って待ってて」
ジャージ姿だった祐里はそう言うと更衣室のほうへ向かおうとし、すぐに立ち止まった
「逃げるなよ。絶対帰っちゃダメだからね」
そう言った祐里はいつもの快活な表情を浮かべている。いや、逃げるつもりはないんだけれども...思いつつ、竜也は一人スマホを弄りながら駐車場へ向かう
「おう杉浦か。珍しいな」
駐車場でスマホを弄っていると、担任の竹内に声をかけられたので竜也は思わず頭を下げる
おはようございますと言う竜也を制し、竹内は「悩みがあるなら大いに悩め。人は悩んで成長するものや」と言ってニヤリと笑うと、そのまま校舎へ向かっていった
相変わらず厳ついながらどこか親しみを覚える笑みを浮かべたまま去って行く竹内を、竜也は呆然として見送っている。何も喋ってないのに心を見透かされた気がしたので
そんなわかりやすく顔に出てるのかなと思いつつ、竜也はまたスマホに視線を向ける
特に何を見ているわけでもなく、ただ何となく弄ってるだけのそれをしているとやがてすぐに祐里が駆け足でやって来た
「お、逃げてないじゃん。偉い偉い」
茶化すようにそう言った後、祐里は校舎のほうを見て目を細めている
「今さ、銀次郎とすれ違ったよ。“早く行け。杉浦が待ってるぞ”とか言ってたけど、あんたなんか喋ったん?」
聞かれたが、思い当たる節はまるでないので竜也は小さく首を振るだけ。だよねーという感じで祐里は一人頷いていると、やがてすぐに先程とは打って変わってびしっとスーツ姿に代わった仲村が悪い悪い。待たせたなという感じでやって来た
「まあ乗れ。助手席荷物で酷いから二人で後ろでいいよな」
仲村の車は立派な黒のGT-Rだったので、竜也は内心驚きを隠せない。教師って儲かる職業だったのね。知らんけど
どこへ行くとも告げないまま、車は市街地へ向かって進んでいる
仲村はもともと口数の多いタイプではないし、竜也も同じ
祐里は普段は快活なのだが、さすがに“退部届ショック”がまだあるようで今回に限っては無言
車内は静かなまま、やがて「ついたぞ」と仲村の声とともに停車した
竜也と祐里は促されるまま降りたが、すぐに二人は顔を見合わせて思わず苦笑する
そこはリトルリーグが使うグラウンドだったので
「どうした。ほら、入れ入れ。ちゃんと許可は取って来たから」
仲村は助手席からグラブ2つとボールを手に取り、竜也と祐里にグラウンドに入るように再び促す
訳も分からなかったが、とりあえず二人はグラウンドの中へ
「杉浦、ちょっとショートの位置に立ってみろ」
そう言ってグラブを一つ渡すと、祐里にホームベース上に立たせてボールを手渡すと仲村自身はグラブを左手に嵌めて一塁ベース上へ
言われるがままショートに立った竜也はとりあえずグラブを嵌めてみたが、仲村の意図はわからない
祐里も手持ち無沙汰に佇んでいたが、仲村が竜也に向かってボールを転がしてやってくれとよくわからない指示を出したので言われるがまま投げる
転がすつもりがなぜか叩きつけた感じになる運動音痴っぷりを発揮した祐里だったが、ボールはしっかりと竜也の元へ
竜也はそれを華麗に捌いたが、「杉浦、ファーストだ」と仲村が構えているファーストへの送球を躊躇してしまう
「どうした。早く投げろ」
再び促され、竜也はうるせーよという感じで投げたがそれは見事な悪送球
背が高い(183くらいありそう)仲村の遥か頭上を越えるそれを披露してしまい、竜也は思わず頭を掻く。祐里が驚きを隠せない中、仲村は静かにボールを拾いに行ってそれをまた祐里の元へ戻す
「杉浦、次はサードに入ってみるか」
竜也は頭を掻いたままだったがとりあえず言われるままそれに従う
また同じように祐里がボールを三塁方面へ投げると竜也はそれを華麗に捌くまでは行くが、やはり送球前に躊躇いをみせてしまう
「杉浦、逃げるな。思い切って投げてみろ」
仲村が静かながら強い口調で諭すと、竜也は普段と同じようにスローイングをみせるが...送球は1塁とホームベースの間に行ってしまう
「ちょ...竜...」
信じられない送球が2度続いたので祐里もさすがに動揺している様子だったが、竜也は苦笑しているように一人首を振っていた
仲村は相変わらず静かな表情のままボールを再び拾うと、また祐里の元へそれを戻す
「杉浦、次はセカンドだ」
仲村がそう指示する。竜也は同じ結果になるだけだぞと内心自嘲しながら渋々という感じで従う
再びボールを投げるように指示された祐里は半分泣きそうになりながらボールを叩きつけると、不規則なバウンドを刻みながら竜也の元へ飛んでいく
取るまでは大丈夫なんだよなと思いつつ竜也はそれを捌くと、ままよという感じで少しサイド気味に送球すると多少逸れたもののボールは仲村のグラブにしっかりと収まった
ふぅという感じで竜也が思わず天を向いて息を吐くと、祐里も「よかったー」と呟いてしなしなと思わず腰を下ろす。さすがにスカートが汚れるから座りはしなかったが
「イップスだな」
仲村が竜也の元へ歩み寄ってそう言うと、竜也は静かに頷いた。祐里はそれを聞いて再び目をぱちくりさせながら、慌てて2人の元へ駆け寄って来る
「見ての通りです。こんな状態なってしまったからもう部にはいられません」
竜也がまた首を振りながらそう言うと、祐里は慌ててそれを制す
「何言ってるのさ。先生、イップスは治りますよね?」
普段は監督と呼んでるのに、取り乱してしまった祐里は思わず先生と呼んでしまっている
仲村は特にそれを気にはした様子は見せなかったが、「いや、そう簡単に治るものではないな」と祐里のほうを見ながら小さく笑った
「それじゃホントに...」
祐里が寂しそうにそう呟くと竜也はゴメンという感じで祐里に向かって頭を下げた
「ごめんな。甲子園連れてくって約束したの無理になっちまった」
竜也がそう言うと、祐里が返事をする前に仲村がそれを遮った
「なあ杉浦。セカンドなら大丈夫なんじゃないか? お前元々セカンド志望だったじゃないか」
仲村がそう提案すると、いち早く祐里がすぐに何度も頷いた
「そうだよ。竜はもともとセカンド本職だったんだし大丈夫だって。私は竜を信じてるから」
祐里に目に涙を浮かべながら懇願されては、さすがの竜也も無碍にすることはできない
竜也はまた右手で頭を掻きながら、「けど監督、さすがにイップスなったからセカンドになりますっていうのも問題じゃないですかね。普通なら外野とかに」
そう言いかけつつ、いや俺外野は嫌だなというのが思わず顔に出てしまっている
それに気づいた仲村がまた小さく笑うと、竜也の右肩をポンと叩いた
「お前、入部したときに言ってただろ。外野とファーストは嫌ですって。大丈夫、俺に考えがあるから任せておけ」
そう言って、仲村はスーツのポケットから財布を取り出すと何やらチケットを2枚取り出してそれを祐里に手渡した
「明日日曜だったな。杉浦、進藤。お前らは部活休め。二人で映画デートでもして気分転換してこい。そして月曜から再始動だ」
仲村が祐里に渡したのは映画の無料招待券だったのだが、竜也と祐里は思わず二人で顔を見合わせて笑っている
「先生、私たち付き合ってないんだけど...」
祐里が思わずそう呟くと竜也もすぐに頷いて呼応。それで今度は仲村が驚いた様子を浮かべている
「おい、冗談だろ。お前らの仲の良さは部員みな周知の事実だろ」
仲村がそう言ったが、竜也と祐里は合わせ鏡のように何度も首を振ってそれを否定した
「私たちはただの幼馴染ですよ。ホント腐れ縁でさー」
いつもの様子に戻った祐里がそう言うと、竜也はまた頷いて同意を示す
「監督。俺は彼女いない歴=年齢なんですから。これ以上トラウマを植え付けないでください」
竜也もようやく心に平穏が戻りつつあったのか、そう軽口を叩けるようになっていたので今度は仲村と祐里が顔を見合わせて笑みを浮かべている
「なあ進藤。杉浦が可哀想だ。ちょっと考えてやったらどうだ」
仲村が心底心配そうにそう呟くと、祐里は笑みを浮かべたまま竜也の顔をまじまじと見て目を見開くポーズ
「そだね。じゃあ甲子園連れて行ってくれたら考えてあげようかな」
なかなかの難問を突き付けられた竜也は思わず「Cabron.」と呟いて首を振った